七夕が来ると思い出す人


七夕。
私には 織り姫さんと彦星さんより先に 思い出す人が居る。
父方の祖母だ。七夕生まれだった。
私が 高校生の時に 亡くなってる。今 一番会いたい人だ。
母方の祖母とは大仲良しで、小さな頃から存分に甘えて、半人前になってからは車でドライブに連れて行ったり。
色んな話もできたし、老後はそれなりにお手伝いもできた。そのころには 私の大筋が出来上がっていたから、まだ良いのだが...。DSCN4161.JPG私は 小さな頃から見た目が 父方の祖母似だった。
大人になるにつれて 家族は「性格まで似てきたね。」と口を揃える。
しかし、祖母はとても鋭く、賢い人だったからちょっと申し訳ない。
生前 祖母はちょっと怖い存在だった。おちゃらけ者で ヌケてる私はしょっちゅう叱られてた。
正直、嫌われてるのかな?って思ってた。
今ならどんな会話ができるだろう?色々深い話しができるかな。
祖母と もっともっと話したかった。どんな 人間性だったのだろうか?
祖母は私の恩人だ。
私が2歳のころ「この子の目おかしいわ。紹介するから病院に連れて行きなさい。」と指摘した。
祖母は眼科の開業医だった。
祖母の指摘は的確で視力は 0.02 と 0.03 先天性の弱視だった。
2歳にして、メガネっ子になった。しかも遠視だからいわゆる牛乳瓶底メガネ。
でもこのメガネによる治療のおかげで 現在視力は0.3ある。もっとも乱視が激しく 普通の0.3とはずいぶん違うが。
成長期の早い段階での発見が効を奏した。
祖母は1907.7.7生まれ。 私よりナナという名前が 合いそうだ...。
そして、ふとこれを書こうと思った今年は生誕107年か...。
ココからは 祖母の生誕100年の年に 父が記した文章を元にする。父の文はそのまま小説になるくらい上出来だ。
祖母は日本人の両親の元 カリフォルニア州生まれ、ベラというミドルネームで呼ばれていた。
30歳頃 単身、帰国。 帰国と言っても日本は初めてだったかもしれない。
日本語はほとんどできなかったという。
帝国女子医専に入学。 医学部なら日本語ができなくてもどうにかなるだろう。という考えだったそうだ。
もちろん 私からみて 祖母の日本語は完璧だったし。たいして祖母の人生を知らなかったので、ふとした時に外人さんと 気軽に話してる 祖母を見てポカンとした記憶がある。
卒業後、慈恵医大病院に勤務。
この頃 東京大空襲を受ける。その時には父はもう 生まれており、まだ小さな父を連れて 火の海を逃げ惑ったそうだ。
もちろん結婚もしたようだが、極短期間だったそうだ。
祖母はその時代にしては、すべて型破りな人だったのだろう。
医師としても、開業医兼、校医や労災指定医として奮闘していたようだ。
しかし、誰が相手でも、どんな状況でも常に毅然とし、意志を貫く強い人だったという。
戦後一時、大林組で通訳をしていたそうだが、米軍将校を相手に一歩も譲らなかったそうだ。
武勇伝だらけの人だ。女性の立場がまだ確立していない時代に 男性並かそれより 強く生きた女性であった事が伺える。
割と高齢になってから、柿の木の剪定をしていて、落下。 足首を骨が見える程の 複雑骨折した。多量の出血もある中、お手伝いさんに指示して、救急車を呼び。消毒し添え木まで自らやってのけた。
5分程して到着した 救急隊員にも的確に指示までして。更には病院も自ら選んだという。
もちろんリハビリもこなした。決して「痛い」とは言わずに「論より証拠、生きてる証拠。」といい自分を励ましていたという。
真似できないな。
そして、亡くなる直前まで 英語やスペイン語の勉強を続けた。
自らに対しても、甘えを許さず 意志を貫き通した人だったのだろう。
なんとも驚異的な人だ。
私の手元には 一切の写真もない。 実家にはたくさんあるが。
まだ デジカメも 携帯も 無い時代だったからな〜。
しかし、私自身に確実に彼女を受け継いでいるのを感じる。生きてるうちに祖母に 一歩でも近づける人間になりたいものだ。
祖母に対して大好きというより尊敬という感情の方が勝る。
今年の七夕晴れるかな?


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